うーとーとーができない。
サイレンが鳴る。耳慣れない音が街中に鳴り響く。
あぁ、またこの日が来たか。
恐ろしく大きなサイレンを聞きながら、私は目を瞑る。
『平和を祈る』この文字を頭に浮かべながらまぶたを閉じる。
沖縄ではこの行為を【うーとーとー(黙祷)】と言うらしい。
たった1分の目を瞑る行為。
それがなぜ平和に繋がるのかは、正直わからない。
でも小さい頃からやってきたことだから
今さらこの慣習に異議を唱えるつもりはない。
この形式的な行為に違和感を覚えつつも
あたしはその日もまた、【うーとーとー】した。
小学生の頃から受けてきた『平和学習』
平和の尊さを謳われても、私にはピンとこないことばかりだった。
目の前で大切な人が殺された経験もなければ、
命をかけて水を手に入れようとした経験もない。
大切な人と携帯一つで繋がれる、会話ができる。
蛇口をひねれば水が出てくる。
そんな時代で生まれ育った私たちが
戦争についてどれだけ考えても、語り合っても、
戦争を経験した彼らの苦しみには追いつかない。追いつけない。
『平和ボケだ』と言われても、
私たちにとってはこれが当たり前なんだからボケもバカもない。
戦争
この二文字が遠く別の世界の話に聞こえてしまう
次世代に伝えるには、まだまだ足りない。
心のどこかでは他人事に思っている、
そんな私が未来の子どもたちに何を語ることができるのだろう。
平和よりも【うーとーとー】が終わった瞬間、どんな表情をしたらいいのか、
それだけを考える無意味とも言える1分間を毎年過ごしてきた。
東京に来て3年。
今年も慰霊の日をこの地で迎える。
携帯の画面で正午になる瞬間を確認した。
毎年聞いていたサイレンは聞こえない。
気味が悪いほど、普通のお昼だった。
私はうーとーとーをしなかった。
時間がないわけではなかった。
平和を願わないわけでもなかった。
戦死者を追悼する気持ちがないわけでもなかった。
でも私は、うーとーとーをしなかった。
したくなかった。
私にとって《戦争》はまだまだ他人事だ。
平和は約束されたものではない。戦争がいつ起こるか分からない。
分かっている。私たちの当たり前はあたりまえじゃない。有難いことだというのは分かっている。
でもなんででしょうね。
戦争をまだ自分ごとに考えられない、
こんな私が平和な世の中を祈っていいのか。
そんな迷いにちかい疑問が私の中で生まれてくるのです。
平和を祈る気持ちに資格なんてないはずなのにね。
なぜか気にしてしまう自分がいるのです。
私は慰霊の日が苦手です。
いや、正確に言えば、
慰霊の日を苦手だと感じている自分が嫌いなのです。
周りに流されて『平和を願っているフリをする自分』が嫌いだった。
いつまで経っても、戦争と自分を切り離している。
慰霊の日の存在を受け入れずに、拒否し続ける自分。
逃げ続けてきた自分と強制的に向き合わされる。
だから私はこの日がくると心の奥がズンと重くなる。
戦跡めぐりをするのも、体験者から直接お話を聞くことも、
戦時中の追体験をすることも、本や写真で当時の悲惨さを知ることも、
同年代の友だちと平和と戦争について語り合うことも、
全部全部やってきたことだけど、まだまだ私にはわからない。
きっとまだ足りない。まだ学びが足りていない。
今の私にはまだうーとーとーができない。
少しずつでも戦争の悲惨さを知ることで平和を心から願える日が来るのかもしれない。
来年こそ、きれいな気持ちでうーとーとーできますように。
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